大判例

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大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)341号 判決

控訴人 大西操子 外二名

被控訴人 尾張繁次郎

主文

原判決を取消す。

被控訴人の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

一  当事者の求める裁判

1  接訴人ら

主文と同旨。

2  被控訴人

(一)  本件控訴を棄却する。

(二)  控訴人らに対する請求の趣旨の訂正により原判決主文第一項を次のとおり変更する。

控訴人らは被控訴人に対し、各自金一一一万一一一一円及びこれに対する昭和五二年七月二五日から完済に至るまで年一割五分の割合による金員を支払え。

(三)  控訴費用は控訴人らの負担とする。

二  当事者の主張

次に付加するほか、原判決事実摘示と同じであるからこれを引用する。

(被控訴人)

1  第一審被告大西増次郎は原判決言渡後昭和五五年三月五日に死亡し、控訴人らはいずれも亡増次郎の子である。

2  控訴人らは、増次郎の死亡により同人の遺産を相続したから、同人の被控訴人に対する貸金保証債務金一〇〇〇万円のうち、それぞれの相続分に応じた九分の一宛の割合による金員の支払義務がある。

3  控訴人ら主張の相続放棄の効力を争う。すなわち、

民法九一五条一項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」とは、相続人が相続開始の原因たる事実を知り、かつそのために自己が相続人となつたことを覚知したときと解すべきであり、それ以上に「積極財産の一部又は消極財産の存在を覚知すること」までは要しないものというべきである。

控訴人らは被相続人増治郎の死を死亡当日である昭和五五年三月五日又はその翌日に知つたものであつて、それにより自己が相続人となつたことを覚知したというべきであるから、控訴人ら主張の相続放棄の申述は熟慮期間経過後になされたものとして無効である。

(控訴人ら)

1  被控訴人の主張1の事実を認める。同2の事実は否認する。

2  相続放棄の主張

控訴人らは、増治郎の死亡を死亡当日あるいはその翌日に知つたものであるが、増治郎は当時生活保護及び医療保護を受け、一人暮らしをしており積極財産はなく、また控訴人らは増治郎とは長年行き来がなかつたので、同人に死亡当時一〇〇〇万円もの保証債務があるなどということは全く知らなかつた。

そして、控訴人収は昭和五六年二月一二日に、控訴人操子は同月一四日にいずれも原判決の送達を受けて、控訴人茂子は同日控訴人操子から連絡を受けて、それぞれはじめて増治郎の債務を知つたものである。そこで控訴人らは、同月二六日大阪家庭裁判所に相続放棄の申述をしたところ、同年四月一七日同家庭裁判所において右申述を受理された。したがつて、控訴人らは、右相続放棄により、増治郎の債務を相続しないから、本訴請求金の支払義務はない。

三  証拠〈省略〉

理由

一  原判決理由一ないし三(原判決六枚目表一行目から一〇枚目表八行目まで)の原審の説示は、当裁判所もこれを正当と判断するものであるから、その理由記載(但し、六枚目表二行目の「その方式」から同三行目の「すべき」までを「成立に争いのない」と訂正する。)をここに引用する。

右認定の事実によれば、被控訴人は亡大西増治郎に対し、浅野さくへの貸金の連帯保証契約に基づき、一〇〇〇万円ならびにこれに対する本件契約の締結の日である昭和五二年七月二五日から弁済期である同年一二月三一日まで利息制限法所定の制限利率年一割五分の割合による利息金債権及び弁済期の翌日である昭和五三年一月一日から完済まで右割合による遅延損害金債権を有することが明らかである。

二  大西増治郎が昭和五五年三月二五日死亡したこと、控訴人操子、同収、同茂子がいずれも増治郎の子であることは当事者間に争いがなく、右事実によれば、控訴人らは増治郎の第一順位の相続人となつたことが明らかである。

控訴人らは、民法九一五条一項に定める期間内に相続放棄の手続をしたので増治郎の債務を相続しないと主張し、成立に争いのない乙第二ないし第四号証によれば、控訴人らは、昭和五六年二月二六日大阪家庭裁判所にそれぞれ相続放棄の申述をし、同年四月一七日同家庭裁判所において右各申述がいずれも受理されたことが認められる。

しかるところ、被控訴人は、右相続放棄の各申述は法定期間内になされたものではなく、いずれも無効である旨主張するので、以下検討する。

1  前掲乙第二ないし第四号証、成立に争いのない乙第一号証、控訴人大西操子、同大西収、同大西茂子の各本人尋問の結果、本件記録中の大西増治郎や控訴人らの戸籍謄本、判決正本の郵便送達報告書に弁論の全趣旨を総合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  大西増治郎は、前妻すみゑと婚姻中の昭和二〇年頃より児玉昌子と知り合つて以後同女と共同生活を継続してきたところ、児玉昌子は、昭和二〇年九月三日益明、昭和二四年四月一八日控訴人操子、昭和二五年八月二日控訴人収、昭和二七年一二月一〇日控訴人茂子をそれぞれ出産した。増治郎は、昭和三六年三月二二日すみゑと協議離婚するや同日児玉昌子と婚姻届を了するとともに、益明及び控訴人ら三名を認知し、控訴人らは準正により増治郎の嫡出子となつた。

(二)  増治郎ら一家は、大阪市城東区今福で借家住まいをしていたのであるが、増治郎が定職に就かず、ギヤンブルに熱中し、酒を飲んでは昌子や控訴人らに対し暴力を振つたため、増治郎と昌子、控訴人らとの間でいさかいが絶えなかつた。

昭和四一年春控訴人収は増治郎と喧嘩して家を飛び出し、同年四月電気通信高校に入学と同時に寮に入り、家には帰らなかつた。次いで昭和四二年秋には昌子が控訴人操子、同茂子を連れて家を出て城東区内のアパートに住み(長男益明については必ずしも明らかではないが、遅くともこの頃にはすでに家を出ていた模様である)、以後増治郎とは別居生活を続け、結局昭和四五年六月九日増治郎と昌子とは協議離婚した(控訴人収、同茂子の親権者はいずれも昌子と定めた)。

増治郎はその後も引き続き城東区今福の借家で、生活保護を受けながら独りで生活していた模様であるが、控訴人操子や同茂子とは全く行き来はなく、控訴人収も一度顔を会わせた程度で、昭和四九年五月の結婚式にも父を呼ばず、親子の間の交渉は全くとだえていた。

(三)  昭和五三年一月被控訴人は浅野さく及び増治郎に対し本件貸金請求訴訟を提起したが、増治郎は肺結核等に罹患していたため口頭弁論期日には出頭せず、わずかに同年一〇月三〇日の第七回準備手続期日に出頭しただけであつた。増治郎はその後病状が悪化したためか、昭和五四年夏医療保護をうけて東大阪病院に入院した。そのころ民生委員からその旨の連絡を受けた控訴人収は、以後増治郎が死亡するまでに三回ほど見舞に訪れたが、その際同人からその資産や負債について説明を受けたことはなく、本件訴訟が係属していることも知らされなかつた。

(四)  昭和五五年三月四日控訴人収は増治郎の死が近い旨連絡を受けたので、病院に駆けつけ、翌五日同人の死に立会い、控訴人操子、同茂子も同日あるいはその翌日増治郎の死亡を知らされたが、増治郎は当時生活保護や医療保護を受けていて相続すべき積極財産は全くなく、火葬場で火葬されただけで葬儀も行われず、遺骨は寺に預けられた。控訴人らは増治郎に本件で請求を受けているような保証債務があることを全然知らなかつたため、相続に関し何らかの手続をとる必要があることなど全く念頭におかなかつた。

ところがその後約一年経過してから、増治郎に対し総額一〇〇〇万円余りの金員の支払を命じる原判決の正本が、昭和五六年二月一二日控訴人収に、同月一三日控訴人操子に、同月二三日長男益明にそれぞれ送達される(控訴人茂子は同月一四日控訴人操子から判決正本の送達を知らされた)に及び、控訴人らは初めて増治郎には本件保証債務が存在することを知り、益明及び控訴人らは同月二六日大阪家庭裁判所に相続放棄の申述をし、同裁判所は同年四月一七日控訴人らの右申述を受理するに至つた。

なお、長男益明はその後アラスカで登山中に遭難し、同年八月三日アンカレジの裁判所で推定死亡の認定を受けたため、被控訴人は同年九月三日の当審第六回口頭弁論期日において同人に対する本件訴を取下げた。

以上の事実が認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

2  ところで民法九一五条一項には、相続人は自己のために相続の開始があつたことを知つた時から三箇月以内に放棄をしなければならないと定められているところ、右条項にいう「自己のために相続の開始があつたことを知つた時」とは、相続人が単に相続開始の原因となる事実を知り自己が法律上相続人となることを覚知したときだけではなく、そのほかに自己が現実に積極・消極財産を相続すべき立場にあることを認識したとき、すなわち相続すべき積極または消極財産の全部あるいは一部の存在を認識したときであると解するのが相当である。けだし、相続人が被相続人死亡当時積極・消極の遺産が全く存在していないと認識している場合には、通常一般人としてはおよそ遺産相続ということは起り得ないと考えるのが普通であつて、たとえ第一順位の相続人が被相続人死亡の事実を知つていたとしても、右のような場合にわざわざ相続の承認、放棄に関する手続をしないのが通常であるところ、このような場合でもなお将来万一遺産(ことに消極財産)が現われるかもしれないことを予想し、被相続人死亡の事実を知つた時から三か月以内に相続の単純若しくは限定承認又は放棄の手続をしておくべきであるとし、これをしなかつた以上単純承認したものとみなされるからたとえ後日発覚した遺産が債務のみであつても放棄手続を怠つたものとして債務を承継すべきであると解するのは、現代の一般通常人の相続に関する法意識と余りにもかけ離れるものであつて、相続人に極めて酷な解釈であり、相当とはいえないからである。したがつて相続人が被相続人の死亡を知つたときでも、積極または消極の遺産の存在を認識していない場合には、未だ民法九一五条一項の三箇月の熟慮期間は進行しないものといわなければならない。

3  そこでこれを本件についてみるに、前記認定の事実によれば、控訴人らは被相続人増治郎の第一順位の相続人であり、増治郎の死亡をその当日である昭和五六年三月五日又は翌六日に知つたものであるけれども、増治郎は当時病気入院中の身であり、かつ以前より相当長期間にわたり生活保護を受け続けてきたものであつて、相続の対象となる積極財産は全く有せず、もちろん本件保証債務の存在も明らかでなく、相続人である控訴人らは、増治郎の積極・消極の遺産が存在するとの認識を全くもたなかつたのであるから、増治郎の死亡の事実を知つた時から熟慮期間が進行するということはできない。

そして、前記1(四)のとおり、控訴人らは昭和五六年二月一二ないし一四日、増治郎に対し総額一〇〇〇万円余りの金員の支払を命じる判決正本の送達を受けて(控訴人茂子は控訴人操子からその旨連絡を受けて)、増治郎に本件保証債務があつたことを初めて知つたものであるから、前記の見解にしたがうと、増治郎の第一順位の相続人である控訴人らは、この時消極財産とはいえ増治郎の遺産の存在を知り、自己らがその債務を相続する地位にあることを知つたことになり、したがつてこの時から相続の承認又は放棄のための熟慮期間が進行したものというべきである。

そうすると、昭和五六年二月二六日大阪家庭裁判所になした控訴人らの本件相続放棄の申述は民法九一五条一項に定める期間内になされたものであるから、右申述および同裁判所の右申述受理はいずれも有効適法であり、控訴人らは民法九三九条により当初から増治郎の相続人とならなかつたものとみなされ、したがつて被控訴人の本訴請求金を支払うべき義務はないものといわなければならない。

三  以上によれば、被控訴人の控訴人らに対する本訴請求は失当であるから、これを認容した原判決を取消して右請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 奥村正策 広岡保 森野俊彦)

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